り連日、早朝5時から夕刻5時まハイラル在住の白系ロシア人だった。夜明けよりソ連軍の攻撃が開始された。11日よしゅうう駿雨のように降みを除いて、ぶっ通しの砲撃音が各陣地周辺で鳴り響いた。ほとんど火器のない日本軍には肉迫攻撃と呼ぶ玉砕的戦法しか残さてんがいしゆりゅうだん天蓋から手檎弾を投げ込む者、爆弾を抱いてキャみ戦車を摘座させようという者、夜間、敵の指揮所に潜入して手棺弾を投げタピラの下にる者。この戦闘の最中の21日、松山陣地に避難中の婦女子56名が集団自決を果たす。自決の後には赤ん坊の泣き声、だけが長い間残っていたという。大興安嶺にある司令部からは一度たりとも連絡は入らず、完全に見捨てられた観があった。15日、河南台地下陣地の通信室で、玉音放送の後半を傍受する。しかし敵の謀略とみなされ、戦いは続行された。日は不思議に静かだったが、17日はかつてないほどの猛攻に襲われた。死傷者続出。ついに白旗があがったのは18日早朝。この日は夜明けより雨であった。陣地の上にただ1本ぬ残った柳の木に結びつけた白旗は、濡れそぼったまま枝にまとわりついていた。その白旗を確認けんじゅうふ、ぎした後、ハイラル安藤市長は拳銃で自決を果たす。

